2009年1月6日火曜日

イスラエル  南イタリアの夜明け

    「イスラエル」から *

          1

海岸通り。潰れた、白い光。
熱帯の湿気に鼠色の、昔の石畳。
黒ぐろとした砂浜への
小階段。その紙屑、塵。
〈北〉の街なかと同じ静けさ。
見よ、腐れ肉色のブルージーンズを穿き、
タイトで、汚れた白シャツを着た、
少年たちが堤防沿いを歩いてゆく
──アルジェリア人の死刑囚たちみたいに。
誰かがずっと遠くのほかの堤防を背に
暑い陰のなかにいる。そして潮騒、
それが人を落ち着かせない…… 剥がれた歩道の
小広場の後ろに(防波堤のほうに)、
もっと年下の、少年たち。竿。木箱。
黒い砂のうえに広げられたシート。
彼らはそこに寝そべっている。やがて二人が起き上がる。
反対側の舗道にたどり着く、
腐った木のバルコニーのある、バールの明かり沿いに
(カルカッタの思い出……ナイロビの……)
(遠く、ホテルのバールで、ダンス音楽。こちらには
ただ深く低いズムズムという響きと、オリエントの
小楽節の身を焦がす愚痴しか届かない。)
開け放しの店に、彼らは入る……
明るいばかりで、貧しい品揃えの、
金属はおろか、ガラスさえない店に……また出てくる、
また下ってゆく。見向きもしない海を背に、
彼らは黙って、
買ったものを食べている。シートに寝そべったままの
少年は身じろぎもしない。片手を膝のうえに、
タバコをふかしている。誰ひとり
彼らを見つめる者を見つめ返さない(おのれの夢のなかに
埋没した、ジプシーたちみたいに)。


          2

響きのよい名の小ホテル(ジョリー=ジョーカーの
哀れな移替えで、ベネヴェーントやアヴェッリーノの
周辺地なら見つかりそうだ)。
ぼくが無心に明日を思うのはまさにここでだ
聖ペテロやパウロの時代のように──それはまた
ぼくの名前でもあるし──ぼくの宿命でもあり──
ぼくは何世紀も生きながらえた大木の
最後の枝の最後の実なのだ。だがここでは
ぼくは最初の枝の、最初の実なのだし、
前者のぼくと後者のぼくとのあいだには、
〈教会〉の、未来の木
起こらない出来事、存在しない
共存がある。それに、あるべきあらゆることと同じように、
苛酷にも無関係なのだ。ぼくはあの南のほうを見る、
西のほうの、〈種子〉のなんと不条理な着床か──
愛された岸辺か!──蒔かれた種はやがて──
あるべきように──生え育ち、民衆の将来を
どれほど野蛮に、どれほど神聖に
変えてゆくことか……
……………………………………………………………………
それゆえ、たくさん生い茂った葉叢の、最後の一枚の葉っぱ
(ぼくら人間の時代の
歳月、日々がたくさんあるのと同じだけ
ガリアに、カスティリアに、アイルランドに、
〈南〉の昔の諸王国に、哀れな二千年にわたって
数え切れない鎖また鎖……)、たくさんの森の
葉っぱの最後の一枚、その名前は
いまぼくの心を占めているのはまさにそれなのだが……
ひと吹きの風がそよぐ
金属の葦みたいに、目的もなく。
……………………………………………………………………
〈彼〉についてはぼくは何も見つけなかった、
狭い部屋で、殺虫剤の
卑屈な臭いのほかには。
そのかれなら南イタリアの村々にも住めそうだ、
薄くて固いマットレスの小さなベッド、
水の出てこない洗面台。


          3

……それにカフカならこの小階段を推測した
かもしれない、ピアノやテレビ用の踏台付の
ホテルへと導くこの小階段を。ありとある
植民地の底の底に、
人間の血を仔牛の血みたいに流したあげく、
丘のどの中腹にも人は住まずに、どの畑も
死んだまま捨て置かれている──そしていまは
自由の土地──これほど自由がその顔に、
死を塗りたくられたことはなかった。きみたちが
進んでこれほど血を流したことはなかった、兄弟たちよ!
──苦しみゆえの長兄たちよ──悪の壮大さによって、
刻印を打たれて、きみたちはこちらに逃げてきた、きみたちは
身を寄せあい纏まるためにこちらに来た、まるで
死を求めてか、死なぬことを求めてか、
姉妹たちの勇気の熱を信じて
群がりあう小羊たちみたいに。
その精神的損傷は、今日の世界ではこんなにも、
流行遅れになって、二十年、二十五年と経つのに、
こちらではきみたちがそれを保存して、こういう
周縁的地域を捜しあて、神に由来する制度を
そこに守ろうとしている! こうして、
シリアの丘の上に、歴史を剥ぎ取られたまま
であるがゆえに醜い、自然の盲た
切れ端にすぎぬ丘の上に、きみたちは一九四〇年代の
世界の空気を保っている。そしてぼくは
内気で、抑圧されたボーイたちに
給仕されて(髪の毛は襟首に真っ直ぐ、
膨らんだカラー、こんなものは民衆の若者が
持てるはずもない)、幻覚をとおして見る、
きみたちの歴史の恐ろしい一時を。
つまり、ヨーロッパへのノスタルジーアを。


          4

キブツのなかをぼくは歩き回る、そこでは太陽
と静けさはまるで日曜日そのものだ。
いかなる神秘的理由によってか、世界に背を
向けるようにして、むっつりと、
わずかな知り合いとともに、黙祷を選んだ者もいれば、浜辺や、
湖の潮の鈍い水音に満ちたバールで、
ビールを飲む者もいる。
しかし太陽と、静けさはヨーロッパの
どんな土地とも同じく主人だ。
そしてあの太陽、あの大いなる静けさに対する
人それぞれの苦悶と幸せは
修道士に近い絶対性を持っている。
ああ、いかなる安楽、いかなる休息の権利、
いかなる無名の人びとの忘れがちの平和があるというのか、
心のなかに侵略者の憎しみを抱く者のうちに──奇妙な
侵略者ではある、子供で、攻撃的でなく、純粋なのだから。
彼らはおのれの罪のまえに立つ、
〈神〉に従うに性急なあまり予見しなかった、
まるで他人ごとのまえに立つかのように。
そして敵たちは、おのれの土地への
不条理な憐れみ──それは気づかぬうちに、
愛の支配圏から憎しみの支配圏へと
押しやられてしまう──の罪を被り、こうして
宿命の不条理の年代記物語を甦らせてゆく──
彼ら、敵はあの上のほうにいて、ただ憎しみだけを憎む、
到達不能のおのれの山々にいる天使たちなのだ。


          5

帰れ、ああ、帰れよ、きみたちのヨーロッパへ。
きみたちへのぼくの戦慄の感情転移のおかげで、
きみたちのノスタルジーアがぼくには感じとれる。
きみたちは感じなくても、それはぼくに苦しみを与えて、
現実とのあらゆる関係をひっくり返してしまう。
ヨーロッパはもうぼくのものではない! ワルシャワ、
プラハ、ローマはあちらにあってぼくの人生からは永久に
取り上げられてしまったのに、ぼくはその息子であり
主役であった人生を続けねばならない。けれども
それはいまはだんだんにぼくから遠のいて
〈西欧〉の日々の色彩のなかで
ぼくの目には他人ごとに見えてくるのだよ!


          6

ティベリアスから海までの八十五キロに沿って。
オリーヴの再植林が、罪ある者または恐怖を抱く者に
与える敵意の意味において、黒ぐろと続く。
アラブ人の子供たち、彼らはそう、
笑っている、愚かしく笑っている、
胸の張り裂けそうな愚かしさで、
ぼくらの貧乏人の子供たちみたいに。
飢えた民衆の小犬たち、
人間の素晴らしさに唖然とする眸をした小さな獣たち。
胆汁みたいに真っ黒で、笑いに溢れて、
漆黒の睫毛の垣根の後ろで、
まるで砂糖みたいな、花々の熱よ。
たったひとつの宿命のもとに生まれた者の、無用の笑顔。
女の子たちは──笑いかけるとただそれだけで笑って──
胸から離れたみたいに首を揺り動かしながら、
本能的に笑顔からダンスへと移ってゆく。
そして見よ、イスラエル人たちのオリーヴ林の向こうに、
難儀な埃に汚れた、木とブリキの家々、
幸せな古罐と板作りの町々がある。
だがここにもまた、地域の真ん中に、
チョチャリーア地方のベネディクト教派の修道院みたいに、
キブツの中央集中型の建築がある。
笑わない、哀れな青年たちが、あそこにいる。
……………………………………………………………………
車のボンネットに凭れているうちに、
〈神〉の事跡の、自信のない調査員
見習いの降神術のサインみたいに、
二頭の駱駝の背後から、
温和な支配者たちの車のクラクションの
音に答えて、ひとりのアラブの若者が、
ブルージーンズに白シャツで、
両手をきついベルトに──臍の真下に
大きなバックルのある──挟んで、来る、
不明瞭な重荷のせいかのように、
ズボンを擦り下げて穿いたナイトだ。
石の歯をして。ぼくらヘブライ人の顔と
同じ顔をしている。
しかしぼくらのうちには、ああ、怒りや憎しみが
決してないばかりか、怒りや憎しみの
可能性さえもない。
彼には、それがある。だから彼は男なのだ。
彼の実存的な確かさが、
優しく、ぼくらヘブライ人の、いっそイスラエル人の、
種族としての残酷さを、面と向かって叱責している。
ぼくらは神話の未熟をもって、
武器を握りしめて、理性が
ついにその暴力を手に
することを欲する。


          7

そこに、ひとつの連座の証拠があり、
それはすべての歴史を含んで、また、
確かに、最も見事な歴史をも含んでいる(……昔〈十字軍の
騎士たち〉、金髪の男たちが来て──ぼくに言わせれば
ロンバルディーア人や、ケルト人たちであって──
ヒットラーが恋して壊疽にかかった、プロシア人やイギリス人
──あるいはドライアーの撮るデンマーク人──あるいは
バーグマンの北極圏の物語の白子のスウェーデン人たち
などではなくて──あの貧乏人の十字軍、サリンベーネの
親類たち、ポー川流域の、アペニン山脈の、
ぼくの遠い祖先たちがやって来て、ポー川の岸辺の
わずかな太陽によっていくらか歪んだ顔をして、
竈の火によって、あるいはブローロのぶどう酒のせいで
赤ら顔をしてやって来て──そしていまここに
このバーリ人の、あるいは柔弱で横目のターラント人の
金髪の男たちがいる。
無邪気に祖国のない、またほかの
情熱もない、おのれのものを何ひとつ持たぬ者みたいに……
こういう哀れな人たちを、ドゥルズィン、非アラブのアラブ人、
と呼ぶ。崩れた凝灰岩の、白土の村々の住人たち、
ガリッリアーノ川の、またはティマーヴォ川の
盆地の彼らの従兄弟たちにも似て、目的を持たぬ
人生に満ちた歴史の袋の人間たち。)
……………………………………………………**


          9

テル・アヴィヴでの一日。その宿命に囚われた
兄弟みたいな通行人たち。そしてその
宿命にはまだ遠い、彼らの息子たち、
彼らにもたらされた自由と──
優越──未来には、何もかも
彼らにとっては、ありうるのだから……
この栄光のなかで、それは彼らの外にあるのに、
そして彼らの上にはその光しかないのに、
彼らの住む街を盲て包囲する海の
太陽の光にも似て、彼らはおのれの日の
行為を耕すばかりで、過ぎ去ってゆく
人生の痛みを感じない、父親でない
ぼくら父親みたいに、こうして、彼らの
人生となるであろう無関心を予め示しながら。
しかし彼らはヘブライ人なのだ。なぜこのように
振舞うのか、まるでアーリア人のブルジョアの、
西欧の愚かな人種の、実力者たちの息子みたいに?
なぜこんなにも非詩的な有り様なのか?
もしかして彼らがここにいるのは殺されるためなのか?
彼らはそれを知らないのか? なぜこんな息子=父親の
眼差しを、その前では、彼らの父親たちが絶滅収容所の中庭で、
とうに死体でいっぱいの貨物列車のなかで、
哀れな、臭い獣たちでしかなかった、
人非人たちに対して向けるのか?
あの崇高な蛆たちから、彼らは生まれた。
そしていま彼らに死を思い出させる
それが彼らの人生なのか? 彼らが勝利者であることを
望んでいる。 だが、たぶん、そうでなかったら?
彼らは散歩し、集まる、美しく、
彼らの街中を、
ポーポロ広場やモンマルトルのように、
多くは、まだ髭の生えない若者で、軍服姿だ。
それに、彼らの想像する異なる宿命から、
彼らの古風な目のなかに苦しみを払いのけるような光が
流れ込む。それに彼らは世界中の
ほかのどの少年たちとも同じだ。
文化的にも選民としても根っからのヘブライ人は、いま、
がっかりして彼らを眺めている。もしこれが不条理の
存在なら、それは彼の幻滅だ。しかしもしそうでないなら、
穏やかに死んでいった父親たちへの愛はいかばかりか!




原註*《Israele》と《L'alba meridionale》とはP.P. Pasolini, Poesia in forma di rosa
(1961-1964), Garzanti 1964 に発表された。
訳註**原書テキストではここの〔8〕に当たる小詩篇は省略されている。この詩篇全体の理解のためには不可欠と思われるので、以下に訳出した。なお、原詩には各小詩篇ごとの番号は記されていない。本書引用の詩の訳出に当たってはすべて各原詩集に当たり、その上でパゾリーニ全詩集Bestemmia; Tutte le poesie, Garzanti, Milano, 1993. をテキストにした。
 しかるに……《わたしらの子は/フィーキディンディアの花みたいさ、/そとは渋いが、うちは甘い、》/と、バハランの旦那たちがその息子たちについて言う、/倉庫が四棟に、サイロと、避難所、/ダッハウのそれらみたいな共同寝室。/そして中央ヨーロッパのある村の平和が/植民地の平和と曖昧に溶けあってゆく。/あの少年たちの不安を、顔に現れた/昔からの神経症を、彼らに指摘したぼくに、/そのぼくに彼らが言うのだ。まるで/あの子らはぼくの子供みたいに!そして事実──ぼくの子供だ、/ぼくが父親だと言いうる唯一の子供たちだ、/可哀相なフィーキディンディアの花たち、あの子らは笑わない。/イタリア人なら、フェルゼン、フランス人なら、ラゾン。/共通の息子というこの実験に加担して、/母性、父性の、戦慄の愛の、幾重ものコンプレックスの/巣窟から外へ。それは時を遡って、/残酷にも黄ばんでしまったなかへ、分かってはいる、/一九四四年の写真の黄ばみのなかへ、/さらにずっと古い時代へ、忠実に、遂げてきた、/人間の宿命が、齢を重ねず、/何千年間も繰り返してきたこと、子らと、父さんと、/柔和な者を頑な者にする(神〉。




      「南イタリアの夜明け」から *


          1

埃で刺繍された、黄色いヴェールで包まれたかのように、
厚い、泥で出来た、エルサレム──エブロンの
谷──ほかの幾重もの泥のうえに固まって
罅の入った泥の足場──砂糖みたいに白い糞、
丘の斜面と村々のうえに、丘の斜面と
村々の掻き絵(骨みたいに軽い)──
干上がった小川の流れるゲヘナ
(地平線上に、優しく黄ばんだ
血に汚れた、ガーゼの絶壁)
そして蓋を取って暴かれた墓たちの
夢見るような痕跡──リバティ様式の聖所、
──穏やかに齢を重ねた異形のオリーヴの木々……
……………………………………………………………………**


          3

機上でシャンパンを飲み交わす飛行機、キャラヴェルは
機長の告げるには
「事実上」平均時速八〇〇キロで飛んでいる。
実際はぼくはじっとしていて、シャンパン(文学的名声ゆえに
ぼくのグラスにはひときわなみなみと注がれた)を飲みながら、
「事実上は」ぼくは心のなかにどんな本も、どんな作品も
持っていないことを知っている。
ぼくは「実際」のぼくである者よりも劣っている、
もしもぼくが世界の足下に止まるように出来ていて、
ここ、パドローネたちのあいだ、キャラヴェルの機上にいるの
でなければ。連中はコルフ島をテッラ・デイ・マッツォーニと、
(あの下のほうには、雲の小さな染み)、
ローマと、混同する、
テーヴェレ川をヨルダンの千もの川のひとつみたいに。
ぼくは舞い戻るべきなのか、貧乏人に?無名の者に?少年に?
ぼくの影響力なんて、ぼくの名声なんて、滑稽だ。
〈父〉よ、いったいぼくに何が起きているのだろう?


          4

いつも何かが足りない、ぼくのどの直観にも
隙がある。それに通俗的だ、
この完全でないことは、通俗的だ、
ぼくは決してこれほど通俗的ではなかった、この渇望、
この《キリストを持たぬこと》においてほどには──孤独の
なかで純粋に直観することですべて失われるわけではない
仕事の道具としてのひとつの顔、
愛のほかには何ひとつ関心のない
おのれ自身への愛、文体、太陽をうろたえさせる
文体、ほんとうの太陽、残酷にも古い時代の、
──蛮族の城の象の背のうえに、
〈南イタリア〉の貧しい家並のうえに──フィルムの
太陽、柔らかで崩れた灰色、
水槽の白、複製ネガ、複製ネガ、
──記憶のなかにある崇高な太陽、
天頂にあるときと同じ物質感をもって、
天空を渡りつつ、哀れな村々の
果てしない落日へと進みゆく……


          5

高みに、生石灰の白い光、
──悪疫のあとの漂白
つまりは健康ということ、そして喜び漲る
朝、犇めく真昼──それは太陽だ
生きている影のパスタのうえに光のパスタを
重ねて、無上の白さの光線のなかに暈をおき、
燃えあがる白でもって多孔質の壁の
燃えあがる白をパンのパスタみたいに覆いながら
民衆の中世のうわべ
──バーリ〈旧市街〉、平和すぎて
病んだ海に望む高台の村──
特権であり賤しい人びとの
烙印である白──見よ、あそこに、哀れなアラブ人みたいに、
古い時代の燃えたつ〈サブトピア〉の住人たちが、
息子たちの商館を、孫たちの小路を満たしてゆく、
襤褸屑の屋内、生石灰の扉、
レースのカーテンの狭い出入口、魚と小便の
臭い水に濡れた石畳
──すべての用意がぼくには整った──だが、何かが足りない。


          6

おのれの義務を怠るという考え
たった一時間なまけたか、それとも出発を
翌朝に延期して一日失ったか
くらいのことで──それも前夜が遅かった
からで(はやオレンジ色の夜明けだった)
〈総合市場〉の時間の不作法な
沈黙の深みに落ちた〈ジョリー〉のなかで──
きっと、それは別の妄執の衣裳にほかならない。
同じ岸辺で生まれた
この海の──だが、あの北のほうの、イタリアの
戸口で、ヴェーネト方言の音素と桑畑と、
思いも及ばぬ用水堀の岸の桜草のあいだに
そこで──古典ではなく、古典ではなく、
火の味わいによる風土の苛烈さの申し子として……
そして見よ、ぼくはここに、真のイタリアに、ぼくには
こんなにも遠い国にいる。そしてその主導権、
ぼくがこれほど純粋に、持つ主権は、
責め苛まれながら染まってゆく
あの義務を怠るという──不条理な、
あの北のほうで、桜草の
生え染める以前の世界で生まれた
──考えによって。
ぼくはまだ見つけていない、カファルナウムを、
ガダラを、タボルの山裾を──一晩中
ほっつき歩いたというのに、など。夜明けだった!
もしもその愛が埃と泥だったなら、
ぼくはそれを罪のない〈ジョリー〉に隠したことだろう──
そして隠した、それを隠した、痩せ細った
身体のなかに、空がオレンジ色に明け染まった、その時を
冒涜した汚れた衣服のなかに……


          7

フィルムはすでにぼくは撮った──しかもキリストの!
キリスト、ぼくは彼を見つけて、彼を表現した!
そしていまは彼を見つけないこと、彼を表現しないこと
それは、ぼくのではない世界から
ぼくの魂に入りこんだ感情の、濁った、純真な戦争
でしかない──だから、それはぼくを疎外する。
ぼくには何か足りない、
けれどもこの足りぬことが、ぼくには苦痛ではない。
別の不足、現実の不足には、
さまざまな現象があるのに、この不足ばかりは
その姿も定かではない。かくしてパン撮影はいずれも
撮りつくした、真っ白で多孔質の石灰の露地のうえに、
人びとの側面に降りそそぐ燃えたつ太陽の光線をもって、
そして大〈印象派画家〉の影の無をもって、
群青色につき纏われながら…… そしてあの
あの古い時代の山々
麦藁色をして、その中世の城壁は
もっと黒ぐろと麦藁色をして、光の
乾いた泡のなかで、マザッチョの絵にも似た顔々の
横顔が黒ぐろと、逆光で、
書き割りのうえに清らかに燃えあがる……
……………………………………………………***


          9

権能を奪われて、著者は
もはや欠くべからざる者ではなく、詩は
溢れながら、もはや詩人ではなく
(詩人の条件は、
人間の神話が衰えるときに
止む……そして他の者は道具だ
同類の人間たちとコミュニケートするための……それどころか、
口を噤んだほうがましだ、最後の平安を
ナルシシズム的なストライキにおいて、予め示しながら)
──ぼくは、またもや失業者だ、
悪辣で純真な読書から生まれた少年だ
かれは(おのれ自身に対して)復讐するために書く
そして無関心な人びとに殉教者の身体を差し出す。

それなのに何か最低のものを
文体との長い交際のなかで
ぼくは獲た──けれども文体のかなたに、ほとんど
その内的自由ゆえに……
青春の条件が
おのれ自身を破壊したのと同じように、詩の
条件も詩を破壊した。
老いたミケランジェロよ、ぼくは何かを探す、
文体の探究がぼくに役立つのは
ただ狂気、神秘的な反復としてだけであるような何かを。
メッシーナの低地帯、カターニアのカスバから帰還して、
こうして、ぼくはおのれと一緒に死を人生のなかに曳きずってゆく。







原註**《Israele》と《L'alba meridionale》とはP.P. Pasolini,Poesia in forma di rosa
(1961-1964), Garzanti 1964 に発表された。
訳註**原書テキストではここの「ぼくを地中海の白堊のなかへ」以下と、〔2〕、〔8〕に当たる小詩篇は省略されている。この詩篇全体の理解のためにはやはり不可欠と思われるので、以下に訳出した。なお、原詩には各小詩篇ごとの番号は記されていない。本書引用の詩の訳出に当たってはすべて各原詩集に当たり、その上でパゾリーニ全詩集Bestemmia; Tutte le poesie, Garzanti, Milano, 1993. をテキストにした。また、訳註中ではあるが、読みやすさを考慮して、原詩の行分けもそのまま生かした。

      **

ぼくを地中海の白堊のなかへ引き入れるかのように、
手をとって、ひとりの厳しい〈悪魔〉が、
ぼくがそのなかで平安を、〈色情狂〉がその
〈地獄〉に欲している平安を、見出せるかのように、
まるで夏が戻ったかのように
海の街の石灰の腸のなかへと導いてゆく
──エルサレムでのセックス、エルサレムでの宗教。
一緒に、未開の時代の厳しい=沐浴のなかで、
エルサレムでの愛欲、エルサレムでの憐れみ、
太陽の下の属州の昔の街。
燈火管制の息苦しい熱気のなかのノルマン人の都。

………………

苦しみの種が無数に犇めきあって
昔の病巣の中心からまた芽生えでて広がってゆく。
ぼくのかたわらには見てそれと分からぬ
アンドレーア師が、別の幾時代もの
凝縮の結実が、公の世界の
連続性のなかを歩む。息苦しい熱気が彼に
あの恐怖感を与える、それは、天地に広がって、
非社会性の癒しがたい傷痕を覆ってゆく。
かわいそうなアンドレーア師よ、彼もまた
司祭の仮面の下すれすれに現われるその恐怖を抱えつつ、
自己療法、おのれの魂に全面的に
没頭しているモデルとなる
(そのこと一切を彼は隠せるが、目だけは欺けない)。

貧しい母親に生まれた長男の司祭の優しさ。
唇に冷やかな翳のさす少年たちの地中海の
お腹のうえのヨーロッパのシャツの柔らかさ。
恐喝者である巡礼者たちのプリントした綿シャツを着た、
可哀相な子、彼らのばかなイエスを心に、可哀相な子たちよ。

………………

そこにはセックス産業のほかに商業はなかった。
それはエルサレムではなく、バーリであり、カターニアだった。
ホテルのどの階にもそのフロアーの「真珠」が、
廊下の小椅子に坐った一匹の優しい野獣がいた。
太い口髭を生やした下層民の丸天井の下のどの小路にも
燈火管制の時間にはヨーロッパ風の衣裳を身につけた
野獣の群れがいて、近東の燈火に煌めく
油で汚れたカッフェの藁床の腰掛に腰を下ろしていた。

………………

けれどもぼくにはいつも、いつも、何かが足らなかった。

失意の淵に立たされて、こんなにも途方もなく
夏で、ローラースケート靴を穿いたチャプリンみたいに、
アンドレーア師はぼくのかたわらを歩いてゆく、でっぷりした
脇腹に、人生に一度も美的関心を払ったことのない者の
野暮ったさが可愛く出ていた。そのコレッジオ頭のうえの
コルク製のヘルメット帽にはナルシシズムの全き不足が
窺えた、ああ、ぼくはなんとひしひしと彼のヴェーネト地方での
幼年時代を、恐ろしいくらいに慎ましく正直なその母親を、
感じたことか。愛の対象としてのキリスト、農民的昇華の
慎ましい心理過程における……アーリア人の、
ケルト人の、西欧人のヴェーネトの小村から来て──
市民権を剥奪されたぼくのかたわらを歩むが、そのぼくは
ヘブライ人に帰化したかったくらいなのに──封印を身につけ
彼は、感動を誘うまでに不器用な大柄の少年で、
母親の優しい声をした、ムーア人で、
教義を請け合うときに……無事であるという事実上の、
驚くべき確信において……
………………

エルサレムでのセックス、エルサレムでの聖職者、
一緒に、ルンペンプロレタリアの鄙びた腐った太陽の下で、
エルサレムでの苦悶、エルサレムでの平安、
ゴルゴタの丘の上の横目の陽気な昔の都。

          2
ぼくはホテルのあたりを歩いていた──黄昏だった──
すると四、五人の幼い少年たちが現われた、
ありうる狙撃から身を隠すべき、
崖も、穴も、わずかな草木もない、
牧場の「虎の皮」のうえに、なぜなら
イスラエルがすぐあちら側、同じ虎の皮のうえにあって、
セメント造りの家々や、虚ろな囲壁が
どの周辺地とも同じく散在していた。
ぼくは彼らに追いついた、道路や、ホテルや、
国境から遠くはなれた、あの不条理な
地点で。それは何度目かの友情であった、
ひと晩つづいてその後の一生を苛みつづける、
そんな友情のひとつであった。彼らは、
困窮者で、おまけに、子供たちだった、
(困窮者には悪事を働く──盗み、強奪、嘘──
智慧があるのに、この子たちは、純真な理想の固まりで
世にも清々しく身に感じてしまう)、
彼らは、たちまち昔ながらの愛の燈火を
──謝意にも似て──眸の奥に燈した。
それから、ぼくらは話しに話して、ついに
日が暮れて(とうにひとりはぼくを抱き締めながら、
ぼくを憎むといい、その舌の根も乾かぬうちに、いや、
愛してる、愛してると言った)、ぼくは彼らのことを、
何もかも、あらゆる単純なことを知った。この子らは神々、
あるいは神々の子たちであった、彼らは神々しくも狙撃する、
彼らを白堊の山々から押し下らせる憎しみゆえに、
血に渇いた花婿たちみたいに、侵略者キブツのうえに
エルサレムのもう半分のうえに……
この襤褸を着た子らは、眠りに、いまは、
野外に、周辺地の牧場の奥に行く。
彼らの長兄たちと一緒に、兄たちは
旧式の小銃一梃に傭兵の口髭で武装した、
諦めて昔ながらの死を死ぬ兵士たちだ。
これがイスラエルの恐怖の的のヨルダン人たちだ、
この人たちはぼくのまえで難民の
古い時代からの苦しみの涙をこぼす。彼らのひとりは、
憎しみの代表となって、はやブルジョアに近い(恐喝者の
モラリズム、神経症的な激しい怒りに真っ青になる
民族主義)が、彼のラジオ、彼らの王から覚えた
古謡のリフレインをぼくに歌いかける──
もうひとりは、その襤褸のなかで、頷きつつ聴きながら、
小犬みたいに、ぼくにしがみつく、国境の牧場で、
ヨルダンの荒れ野で、世界のなかで、
ほかには何ひとつ味わわずに、
哀れな愛の感情のほかには!

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                   8
おのれが永久に枯渇したと思いこんで、
こんなことになるのは理性を裏切って
作詩上の危機のなかでさえ、
書きつづける(そういうときには
沈黙するほうがよかったろうに)
からなのに、ぼくはその枯渇を愛欲でまた満たす、
こちらは気儘な、行為で、ぼくがそれをするときには
いつもそうしたように、人はそれで死ぬ、それと同じ激しさで
する、ほんとうにぼくは死を望んでいたのだ。
けれども犯されることを望む肉体の抗議は、
バーリでの、甘いパンの増加の奇蹟
祭りの一夜──あるいはプライーアにおける
そこでその後オレンジの木々の暈を被って緑の夜明けを迎えて、
この地上で最も幸せな男であろうぼくを見た
──これらすべてが一枚のリストのなかみたいに重なりあって、
愛欲の行為につぐ愛欲の行為で、
たったひとつの界隈で、たったひとつの街で、
南イタリアの夜明けに、プーリアの、カラーブリアの、
ルカーニアの、シチーリアの、長い宵ののちに、
泥濘みたいに濃い海に臨む、
貧しい人びとの家並のあいだで──ああ、神よ、
それは何かしら、ゆっくりと、かくも規範を外れて
ぼくはおのれが孤立しているのを感じる、死刑囚にも似て
──そして実際、崩れ落ち悪臭を放つ家々での愛と、
公衆便所での愛とのあいだ──サン=トロペーの帆船を
胸にあしらったティーシャツを着て、二千リラのズボンを
穿いた衆愚の甘い猿たちとの愛と、
辱しめる報酬の交渉、盗み、体臭と洗ってない性器の
臭いずくめの愛とのあいだで──ぼくは詩を
おのれの詩の対象とするほかはない、
──残りすべてはいまでは醜悪な死の領域
にあるのだとしたら。肉体は血を欲している。